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家屋(補充)課税台帳3

2019年11月24日「日曜日」更新の日記

2019-11-24の日記のIMAGE
<太閤検地と固定資産課税台帳》豊臣秀吉は、天下を統一すると、日本六十余州津々浦々に至るま で「検地」を実施した。すなわち、全国の土地を調査し、標準的な 収被高によって,田ならば上田中田下田と分け,上田の収穫高 は1反あたり1石5斗,中田は1石34,下田は1石14というよ うにきめて検地帳に記載していった。島の場合も,収穫高を米に換 算して,上畠1石2斗,中留1石,下畠8斗とか,屋敷も1石2斗 とかいうように記載し,その耕作者の名前も登録した。「検地帳」というのは,現在の固定資産課税台帳と登記簿とを兼ねたようなもの である。田畑などの所在地や面積や地目がまず記載されている。そ して,検地帳に記載された耕地者が,その土地の権利者であるとい うことでは登記簿に似た性質をもっているし、その耕作者が年貢米 を納める納税義務者であるという点では、課税台帳の性質をもって いる。そして、上田とか中畠というのは地目に相当し、1石5斗と か,1石とかいうのは評価額であり,それがイコール課税標準にな る。当時の租税のほとんどは年貢米によっていたので,この太閤検地 によって,近世封建国家の財政的基礎が確立したといえよう。そし て,四公六民といえば,各人ごとに集計された石高の40%を領主が 賦課徴収するということであり,五公五民、六公四民という比率も あった。これが税率にあたる。その後,この検地帳は、引きつがれ約500年後の現在の課税台帳に なっており,固定資産税の評価額も貨幣で表示されることになって いるが、太閤検地以来の評価の亡霊がいまだに残っており,住宅地 の評価でも、現状にかかわらず昔も上田であったところは高く,山 林であったところは低い傾向の残っている例もみられる。

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