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邱永漢先生らしさとは何か

2018年10月13日「土曜日」更新の日記

2018-10-13の日記のIMAGE
その人を位置付けるには、その人の言葉と行動を分析し、出生地や育った環境を追いかけ、実績とやろうとしている理想を調べると共に、同クラスの人間との比較・対比を加えなければ、個性は明確には浮かび上がってこない。もちろん、文人でありながらこれだけ次から次へと事業を始める人は他にいないから、文化人として傑出していて比較のしようもないが、事業を手がけていること自体、異色である。実際はそれ以上で、個人事業家として考えただけでも、邱先生のように多くの事業と投資に能力を発抑し、かつ成功した人は稀有なことと言わねばならない。では文人と比較するとして、今をときめく藤沢周平氏と比べたら、どうなるだろうか。両氏とも、職人のように磨き上げられた技を持ち、厳しい修練の心を持つことは似ている。しかも、厳しい語調の中の根底に、人としての暖かさを持っている。これは大作家には皆、仕(通することであるが、残念ながら司馬遼太郎氏は、時として尊大になることもある。この点、池波正太郎氏も加えて、3人はいつも自分の足場に立ち、背伸びすることはない。藤沢・池波両氏と邱先生を比べて共通することは、3人とも使命感に溢れ、身を粉にして文章を書くことであろう。大作家といえども鬼の如く、その心は鉄人そのものである。もう一人の司馬氏と4人を相互に考えた場合に、邱先生の独自性が明白に現れ、氏のユニークさが際立ってくる。それは、他人への積極性であり、開放性である。まず、心の門戸を開いて、他人を入れてみる。それから判断し、そぐわない者は除外していく。心が広いというか、開拓者魂というか、中国人に良く見かけるタイプで、国際人となるためには不可欠な姿勢といえる。この点に関して、藤沢・池波両氏は狭量で排他的であり、司馬氏は無理をして道化じみた役を演じる。司馬氏が無理に友人を演じたり、自己の見識で見当違いの解釈をして誇張するのは、不合理性もさることながら、接し方の甘さによる。邱先生は、本を出版すること四百数十冊。他の三氏に劣ることはない。会社経営と事業種目、多数。そこに注いだ厖大なエネルギーは、凡人には計り知れない。しかも、文化的事業が多く、主要なものは成功している。私にはまだまだ知らないことも多いが、もっともっと先生を研究する必要があると思う。概して先生は、「動」の人である。日夜発展し変化していく世界の経済・金融のまっただ中にいて、その日に起きた経済事象に、そのつど素早く対応される。いろいろなことを総合的に考えて、邱先生には代わりがいないといえよう。

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