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安心で快適な住宅であればいい

2018年4月29日「日曜日」更新の日記

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 「私たち人間は安心して快適な暮らしのできる家に住む権利があります。これを「幸福権」といいます。この権利は人権のなかでもっとも基礎的なものです。私たちのような行政にかかわる者は、この基本的人権をベースとし、国民のためになる法律や規制やガイドラインをつくるのです」  この発言はスウェーデンの住宅庁で住宅に関する法律づくりなどを担当するベンド・リドストーム建築サービス部門部長によるものだ。  環境先進国であり、住宅先進国としての評価も高いスウェーデンでは、憲法でしっかり「安心で快適な家に住む権利」がうたわれている。これはドイツでも同様だ。  日本はどうだろうか。日本国憲法13条および25条がそれに該当するようだが、スウェーデン国憲法ほど明確ではなく、また行政も本気で国民の「安心で快適な暮らし」を実現するために努力しているとは思えない。  憲法とは国の最高法規である。憲法の規定をベースにして、さまざまな法律がつくられる。 逆にいえば憲法を根拠にしない法律をつくることはできない。裁判もまた、最終的には憲法をよりどころとして争われる。このようにたいへん重要なものだが、国民が憲法に対する理解を深めなければ、その価値は半減してしまう。  とはいえ、なにも身構える必要はない。私たちが日常生活をあたりまえに過ごせるために、政治のルール、経済のルール、社会のルール、さらには家庭や恋愛についてのルールにいたるまで、その基本ラインを定めたものが憲法なのだ。  その憲法が、前文および一条で「国民主権」をうたっている。国民主権とはまぎれもなく、私たちひとりひとりがこの国の主人公だということだ。日本という国は大企業のものでもなく、官僚、政治家、公務員のものでもない。さらに憲法は、「すべて公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」(15条2項)と規定し、公務員に対して憲法尊重擁護義務(憲法97条)を課している。つまり国民を苦しめる住まいの問題にすみやかに対処してこなかった公務員たちは、憲法に違反しているのである。  「安心して快適に過ごせる住宅」という視点にこだわって、もう少し憲法について考えてみよう。  住宅問題に関連すると考えられる日本国憲法の条文は13条と25条だ。  13条は「幸福追求権を定め、個人の尊重を宣言した条文」といわれる。幸福追求権とは、人間が人間らしく生活をするために必要かつ不可欠ないっさいの権利を定めた基本的人権の総称、あるいは包括的基本人権と呼ばれているものだ。そして個人の尊重とは、その名のとおり、会社でも国家でもなく私たち国民ひとりひとりがもっとも価値が高いということをあらわしている。  35条は生存権を保障している。資本主義が高度に発達する際に、多くの社会的・経済的弱者を生み出す可能性があり、個人の努力だけでは多くの問題が解決できないことがある。そこで、国家の積極的な働きかけによってそうした弱者をある一定レベルまで救済し ようというものだ。これを具体的な法律にしたのが、生活保護法、児童福祉法、国民健康保険法および国民年金法などだ。  また、飛行機や新幹線、あるいは火力発電所などの騒音や公害に対して「環境権」を主張した裁判がよく起こされるが、この「環境権」も25条を根拠にしている。  それでは「安心で快適な住宅」を求めるために、これらの憲法13条や35条をどのように理解すればよいのだろうか。  まず、13条の幸福追求権について考えてみよう。幸福をどうとらえるかは人によって差があり、価値も一つではない。しかし人間である以上、自然や外敵から身を守り、安全に快適に暮らすことは最低限だれもが共通して願うのではないだろうか。  これを実現するものとして住宅がある。その住宅によって不幸になってしまうのはやはり何かがおかしいはずだ。私たちには「幸福」を追求する権利があるのだから、幸福をもたらさない住宅があっていいわけがない。  さらに13条では個人の尊重がうたわれているが、これはひとりひとりの生命、人格、価値を尊ぶという思想である。したがって、これを実現するための法律や法規、ガイドラインづくりを国がおこなうのはあたりまえであり、シックハウス症候群の被害者を数多く出しつづけて いる現在の住宅を野放しにしてはいけないはずだ。  かつて25条1項でうたっている「健康で文化的な最低限度の生活」を根拠に、住宅不足の解消のための住宅供給がさかんにおこなわれたが、今や大量に供給された住宅によって健康被害や環境破壊が起きている。  アトピー、ぜんそく患者をはじめ、健康被害者を多く出している住宅はこの憲法の目標とは大きくずれている。健康ひとつとっても最低限度とはいえないし、まして文化的な生活ともいえないのではないだろうか。  また、直接健康に被害をもたらすダイオキシン、これはまさに「生活部面についての公衆衛生の向上及び増進」をうたっている25条2項に違反しているのではなかろうか。  このように日本の憲法も、現在の深刻で複雑な問題を解決するようにうたっている。したがって、私がわざわざこうして叫ばなくても、本来はいいはずなのだ。しかし、悲しいことにこの憲法を守らなければならない公務員である官僚も政治家も、これまで抜本的な生活の品質向上に向けて取り組んでこなかった。  「人が主」と書いて「住」と読む。今こそ、この「住」についてもっと多くの国民が主体性をもって真正面から考え、声を出し、取り組むときではなかろうか。

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