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子どもの育つ環境を考える

2018年3月29日「木曜日」更新の日記

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 子どもが母親の胎内から生まれてくると、その肉体を保護してくれるのは住居だ。 そして子どもはそこで成長していく。 大人になるにしたがって社会へ出ていく機会はふえるが、子どもにとって住まいは、老人の場合と同様、生活の中で大きな比重を占める。 人間の発達の過程の中で、住居の占める役割はそのときどきによって異なるが、幼児や子どもや老人にとっては非常に大きな位置を占めている。  たとえば赤ちゃんは、住まいの中で、寝がえり、おすおり、腹ばい、はいはいという順序で発育してゆく。 この経過を十分にたどらないと、からだの健全な発達が望めない。 教育学者たちは一般に子どもの発達条件として次の3点を挙げる。 1 活動なくして発達なし。 2 教育なくして発達なし。 3 集団なくして発達なし。  これを私なりに解釈してみると、次のようにいえよう。  1の活動にはいろいろあろうが、子どもは、山や川や海、あるいは地域の中での遊びを通じてからだと心を発達させていくのだと思う。  子どもは人工的な、かつ大人によって管理された遊び場にはすぐ飽きるが、自然の中では、それがちょっとした土手や草むら、遊びのために用意されたのではない塀と塀の隙間、神社やお寺の境内、家の前の道路や路地などではいつまでも遊んでいる。  人工的なブランコや砂場やすべり台での遊びには変化がなくワンパターンだが、遊びには予期しないことが起こる。 思わぬ反応があって興味がつきない。 また創意工夫を発揮できる。 木に登って蝉をとる、川で魚をとる、知らない土地を探険する。 それが子どもの心とからだを育てる。 だから、街には役所のつくった人工的な公園だけではなく、自然のままの野山や小川がどうしても必要なのだ。  お母さんが、幼い子どもを「遊んでばかりいる!」と叱るのは、実は子どもの創造力の芽をつんでいることである。 そんなことわかっている、学校の勉強と遊びとは違う、と言う教育ママがいるかもしれないが、本当に子どもの能力を大きく伸ばそうと思ったら、自然の中でよく遊ばせることが必要だ。自発的な活動=遊びがなければ、子どもの心身は発達しない。  2の教育では、学校はもちろん、家庭や家のまわりの地域も教育の場なのだと思う。学校での教育はいうまでもないとして、家庭では祖父母や両親から何かを教わるというだけでなく、家族 の日常的な会話や人間関係そのものが教育環境となる。 よくいわれるように、両親が祖父母をうやまい、きちんとあいさつしていると、子どもも両親にあいさつするようになる。  父親がまで本を読んだり勉強していると、子どももそういう習慣が身につくだろう。 手近に本が置いてあると手にとるだろうし。  また地域内にいろいろな年齢の人が住んでいることも、一種の教育環境である。  老人が若者と接することの意義をみたが、それとは逆に子どもたちは、身近に老人がいることによって、老人をいたおったり、老人から人生の知恵を教わったりできる。 障害者のような肉体的にハンディキャップをもつ人が身近にいて、ふだんから話をするなどして接していると障害者も普通の人だということがわかるようになる。 それをどこかに集めて隔離してしまうから、差別意識も生まれてくる。  ある小学校の先生から聞いた話である。 長い銀髪の老婆を見たある子どもは、「わあ、お化けみたい!」と言い、家に老人のいる子どもは「うちのお婆ちゃんと同じ髪の色をしている。 ちょっと長いけど」と言ったそうだ。  老人ホームの建設に反対する「住民運動」があった。 臭い、きたならしい、霊柩車がしょっちゅう出入りして子どもの教育上悪いから、というのである。  またあるマンションで障害者を追い出す運動があった。 それまで障害者に接したことがない人たちが気持悪がった。 同じ人間だと思えないらしい。 だから追い出すことに賛成する。  だが老人にはだれでも必ずなる。交通事故などで障害者になる可能性もある。からだの弱った老人や障害者は健常者に比べてさまざまのハンディをもっている。 小さい頃からそういう人がまわりにいれば、自分と同じ人間であることがわかる。 ときには自分より優れていることを知って、尊敬もするだろう。いたわりの気持が育ち、生きることの尊さや意味を考えるようにもなる。  老人や障害者を社会の除け者にすることは、人間を労動力として効率一辺倒でしかみないものの考え方であるが、同時にそうする人たち自身の心を貧しくしているのである。 とりわけ子どもたちの人間らしい心を育てられない。 日本の街づくりが強者の論理で、効率中心につくられ、生活者、弱者の視点をぬきにしているのも、こういう環境で育った日本人の心の状態が作用していると私は考えている。 ノーマライゼーションというのは、老人や障害者が一般の市街地で普通の人たちと一緒に住むことの必要性についていわれていることだが、まわりの人たちにとってもそれは大切なことなのである。

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